あれから5年、報道されなかった地震の記憶 前編

ダウンロードあの恐怖の大地震から5年目になりました。

当時東日本大震災報道で大変だった事と局地的で範囲が狭かったこともあり、ほとんど報道されなかった長野県北部地震からも5年経ちました。
しかし、私の記憶の中では今でも鮮明に残っているのです。

その日は、日本中が大騒ぎだった。東日本大震災の津波で多くの方が行方不明になったり、亡くなってしまっていたから。
どうやら過去に経験したことのない、未曽有の大災害に見舞われたらしいって事が徐々に明らかになってきたから。

そんな訳でも、個人的には仕事は忙しくて、その日も布団に入ったのは日付をまたいだ深夜のような気がしています。
それからしばらくうとうとした記憶があります。

しかし、夢の中か現実か?よくわからないままだが、闇夜の中で、山のほうから大きな山なりを聞いた。
何か得体のしれない、恐ろしいものが来る・・・・
そう身構えて間もなく、大きな地震が来たのです。

当時も現在も、同じベットで寝ているが、そこに大きな揺れが襲ってきた。
最近、松之山では中越地震、中越沖地震と立て続けに巨大地震に見舞われていました。

幸運にも僕は中越地震の時は十日町市にはおらず、長野県の志賀高原で写真撮影して、条件が良いので車中泊して、明日もう一度チャレンジしようかと考えていた。
それが、異変は止まった車の中から自宅に電話をかけていると、車が揺れた?????
何故?
それでも、女房に電話し続けたが、電話は通じないのでした。
後から分かった話ですが、その頃の女房は十日町病院で、自分の母が入院していたので、お見舞いに行っていた最中に震災に有っていたそうです。

同じ夫婦でも、震源地に近い場所にいた女房と、震源地から遠く離れている、志賀高原にいた僕では運命は大きく違っていたようです。
それから、十日町に大きな地震があったらしいと言う事が分かり、至急自宅に帰りました。
途中、長野県から新潟県の津南町に入ると、急に道路のいたるところに亀裂が入り、徐々に十日町に近づくほどに被害は増してきました。
自宅の最短の国道405号線も行こうとしたら交通止めで通れませんでした。
そして、女房ともまだ連絡が付きません。
多分自宅に帰ればいるんだと思っていました。
しかし、自宅についても誰もいません、そこで携帯メールを出してみると、すぐに返事がきました。
現在十日町病院にいるけれど、道路が寸断されていて、今日は帰れそうにないので、ここに泊まるといった内容ででした。

電話は普通でも、携帯メールは通じるんだと思ったら、安心しました。
もし、あの時に女房と全然連絡が取らなかったら、どんなに不安だったろうか?

長くなったので、次は昼の11時ころに続きを投稿します。

 

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