ドラマチック!松之山温泉の歴史その②

 皆さん、こんにちは!スタッフの本山です。前回に引き続き、松之山温泉の歴史を書いてみたいと思います。またまた温泉街を揺るがす大騒動が起きてしまいます。

昭和13年頃、噴き上げる松之山温泉1号井(松之山町史より)

 壬申地券と温泉騒動

 時代は流れて慶応(1868)年9月、年号は明治と改められます。明治政府は今までの物納に代わる税金のしくみを模索。土地にも税金を課せるようにしようと、土地の所有者をはっきりさせて、所有者にはその証明として、地券を発行しました。

 その波は松之山にもやって来ます。代々庄屋職を務めてきた九郎兵衛家改め村山さんも、当時の柏崎県の命令で、自分の土地を申告。ただ急を要したので実地調査などは行われず、昔から伝わる検地帳などを基にしていたのです。その中には当然、先祖代々守ってきた源泉地も含まれていました。

 しかし!!それを見た宿屋の主人たちは猛反発!!源泉地や湯小屋は宿屋共有のものであって、村山家のものではないと、柏崎県に訴えるのです!(;゜ロ゜) そもそも源泉地の所有権があいまいだったため起きてしまったこの騒動。過去の検地までさかのぼって、お互いの主張を曲げようとしません・・・。

 その後、柏崎県は新潟県と合併。県が提案する和解案に同意しなかった両者は、ついに東京で裁判をすることになるのです!ところがここでも決着はつかず、新潟裁判所へ差し戻し・・(゜Д゜)当時、東京へ行くには6~7日かかった上に、東京での裁判は一年かかりました。かなりの出費です。

 村には帰ってみたものの、両者ともあとには退けません。新潟での判決に納得できない村山家は、ついに上告を決意。宿屋の主人らを相手取り、今度は逆に訴えを起こすのです!!舞台は再び東京へ!ここで、村山家は逆転勝利。およそ3年の争いでした。横浜毎日新聞にも連日裁判の記事が書かれていて、かなり注目された裁判でした。

 ただ、長引いた裁判の影響はかなり深刻でした。莫大な裁判費用に家運は傾き、村山家の土地も、裁判費用の融資を受けていた浦田口の田辺家の手に渡っていきます。

 長い年月をかけて温泉街の立て直しをしていくのですが、石油事業に失敗してしまった田辺さん。ついに大正8年、源泉地を含む土地建物を、取引のあった長野県松本市の赤羽家に売却します。

 厳しい経営は続きましたが、松之山の交通事情は年々よくなっていきます。松之山温泉は、観光温泉を目指して新たな時代に入っていくのです。

温泉街の大火と復興

 第二次世界大戦後、温泉街は再び活気を取り戻します。そんな中、昭和25年8月19日、温泉街で火災が発生。台風の影響であっという間に燃え広がります。

 松代や十日町からも消防団が駆けつけますが、道路は狭く、真夏の渇水期と重なって、消火活動は難航します。温泉旅館7軒中、焼失を免れたのは1軒のみ。ただ各旅館の適切な処置で、幸いなことに一人の負傷者も出ませんでした。

 この大火は新聞、ラジオで報道され、全国からお見舞いが寄せられます。多くの人の支援と努力で、昭和30年には一部の旅館が営業を再開。温泉街の復興を進める中で、地元からは、源泉と温泉地の村有を求める声が上がります。復興に役立つのであればと、赤羽さんもこれに応じ、松之山温泉は村の基本財産となるのです!

困難を乗り越えてきた松之山温泉

 いかがでしたか?紹介したできごとは、長い歴史のほんの一部です。この松之山町史が発行されたのは、平成3年。湯の山はまだ開業していません。長い歴史の中で、湯の山は一番のヒヨッコなのです。当時の混乱の中にいた人たちは、さぞ大変だっただろうなと。過ぎてしまえば数ページにまとまってしまうけれど、その間だって人々は生活していかなければならないのです。ちょっと感情移入(*_*)

 湯の山もまだ再開の見通しが立っていませんが、今回のことも松之山温泉史に残る大事件だと思っています。個人的には・・。早く再開して、またたくさんの方に利用していただける日を待っています。

By本山

今回も最後まで読んでいただいて、有難うございました。

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