2017.11.6(月)
ドラマチック!松之山温泉の歴史その①
皆さん、こんにちは!スタッフの本山です。最近、松之山温泉について調べようと思って松之山町史を読んでいたのですが、これが想像以上におもしろく、、読みふけってしまいました。うまく伝わるか分かりませんが、印象に残ったできごとを紹介したいと思います!
このページの目次
松之山温泉のはじまり
まずは、松之山温泉が一体いつからあるのかということ。これはご存じの方も多いかもしれません。時代は700~800年ほど前、南北朝時代。傷ついた一羽の鷹が毎日同じ場所に舞い降り、羽を休めているのを一人の木こりが見つけます。不審に思って谷間に降りていくと、そこにはこんこんと湧く熱泉が-。鷹はその湯で傷を癒やしていたのです。
以来、この熱泉は「鷹の湯」として知られ、薬効高い湯として、草津、有馬と並ぶ日本三大薬湯の一つと呼ばれていきます。
湯治場の誕生
はっきりとは分かりませんが、湯治場として宿屋ができたのは江戸時代に入ってからという説があるようです。江戸時代に入って民心も安定し、湯治に訪れる旅人が増えたため、湯小屋の周りで宿屋を営む人が出てきました。
実はこの頃すでに、今で言う入湯税のようなものが存在していたんです。当時は出湯役といって、庄屋の村山九郎兵衛さんがとりまとめていたようです。旅人は木賃(宿泊料)と湯銭を払って宿を取ります。湯銭は宿屋を通じて九郎兵衛さんに集められ、湯小屋や薬師堂の維持・修繕に当てられました。
文政の温泉騒動
繁栄期を迎えた松之山温泉。文政元(1818)年5月、思わぬ騒動が起こります。7軒あった宿屋のうちの4軒が、庄屋九郎兵衛さん、同じく湯本に宿を所有していた浦田口の庄屋猪之助さんを相手取り、代官所に訴えを起こしたのです。しかも4人は、九郎兵衛さんに湯銭も納めないぞ!と怒り心頭です(゜Д゜;)一体何があったんでしょう。
九郎兵衛さんは祖父の代に、宿のほかに商店を建て、湯治客相手に日用品などを売っていました。その後、繁忙期には商店にも湯治客を泊めるようになるのですが、これが周りの宿屋から不評を買ってしまいます。宿屋仲間には、必要以上に宿を増やさないという暗黙のルールがあったようで・・・。
そして、今の当主九郎兵衛さんがその商店を建て直そうとしたところ、これを阻止しようと訴えを起こされます。湯銭を納めていることを主張する4人と、湯小屋の維持管理を行ってきたことを主張する九郎兵衛さん。
温泉場を二分しての騒動に代官所は困ってしまい、近郷の有力者に仲裁に入ってもらうように依頼します。その中には、おとなり松代村と千年村の庄屋も。彼らの奔走のおかげで、その年の12月、和解案が示されます。
その① 訴えを起こした5月以来取り立てていなかった湯銭は、前年 の入湯人数を計算し、その7割をただちに九郎兵衛に支払うこと。
その② 九郎兵衛は、客が大勢入り込んだ時には家内の者のみ店舗での寝泊まりを認め、湯治客は泊めないこと。
何度も話し合いが行われ、翌年の6月、ようやく和解が成立します。その後も、善光寺参りの旅人などから多く利用され、松之山温泉は繁栄していきます。
後半に続く!(^^)/
今回も最後まで読んでいただいて、有難うございました。
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