長岡では誇りになっている「米百俵」精神

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みなさんは、あの有名な米百俵の話は知ってますよね。
新潟県の人なら知らない方はいないはず。

一応念のために簡単な内容を書きます。
明治3年戊辰戦争で焼け野原になった長岡藩。
当時は窮地だったようで石高も7万4千石から2万4千石に減らされたりしています。
そんな困った中、その事を知り三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られてきそうです。

藩士たちは、これで一息つけると喜んだ。食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米だったはずです。

それを当時藩の大参事だった小林虎三郎が、その米を売って、代金を、その頃子どもたちに「素読」を教えた国漢学校の資金に注ぎ込んで、将来の人材のために使ったという話です。

その後、この国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされ長岡の近代教育の基礎が築かれたそうです。
後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された事は有名です。
東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六等々、歴史に名を残す偉人が輩出された話はあまりに有名です。

総理大臣だった小泉純一郎が、当時今の痛みに耐え、未来に投資する、米百俵の精神が大事だと言った事から、全国的に有名なりました。

でも、苦しい時に、虎の子の米百俵のお金を全て教育に掛ければ成果は得られるでしょうか?

普通は無駄な投資に終わると思うのです。
しかし小林虎三郎氏が素晴らしい方だったし、志が素晴らしかったので、見事にそのお金は後世の人たちの人材育成に役立ちました。

何よりも小林虎三郎自体が、素晴らしい教育を受けた方で、崇徳館で学び、若くして助教を務めた。

23歳の時、藩命で江戸に遊学、兵学と洋学で有名な佐久間象山の門下に入り、長州の吉田寅次郎(松陰)とともに「象山門下の二虎」と称せられる。
象山に「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」と言わせるほど、虎三郎は教育者であると言うエピソードも現在に伝えられています。

ここで大事なのは、当時長岡藩は窮地でしたが、適任の方が、それなりの仕事をした結果だと言う事が言えます。

小泉首相の行った米百俵精神は実は半分しかあたっていなくて、本当は小林虎三郎と言う人材が居たからできた事で、もし彼があの世にいなかったら全然違う未来になっていたかもしれませんね。

タグ:
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今回も最後まで読んでいただいて、有難うございました。

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